大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所八王子支部 昭和49年(特わ)242号 判決

主文

被告人を罰金一万五〇〇〇円に処する。

右罰金を完納することができないときは、金一五〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。

被告人に対し選挙権及び被選挙権を停止しない。

訴訟費用中、別紙一、訴訟費用表記載のものは全部被告人の負担とする。

理由

(被告人の経歴及び本件に至つた事情)

一  被告人は山形県村山市で生れ、同市立戸沢中学校を卒業後、川崎市所在の三菱日本重工(現三菱自動車工業株式会社)に養成工として入社し、その後金属材料試験工となり現在に及んでいるものであるが、その間に、昭和三七年六月四日妻松子といわゆる職場結婚し、二子をもうけ、昭和四三年八月一日から山崎団地一街区四号棟一〇三号に居住しているものである。

二  被告人の妻佐藤松子は、山崎団地に入居後、新日本婦人の会の会員として、右団地自治会と協力しながら、団地住民の通勤、医療、環境整備さらには保育、文教関係等諸々の問題を解決する運動をしてきたが、昭和四九年二月一四日告示、同月二四日施行の東京都町田市議会議員選挙(以下本件選挙という)に日本共産党公認の新人候補として立候補した。なお同人は本件選挙においては「佐藤まつ子」の通称を使用することにした。

三  被告人は、妻松子(以下まつ子と呼称する)が本件選挙に立候補することをその告示前の昭和四八年一〇月ころ知り、暫時これに反対してきたが、日本共産党からの説得もあつて、告示間際にはこれに賛成し、夫として妻まつ子が本件選挙に立候補するのを全面的に協力することになり、告示の前夜には、妻まつ子と共に自己の居住棟である一街区四号棟の全戸を訪れ、明日から騒しくなるが勘弁してほしい旨の挨拶をした。そして昭和四九年二月一四日本件選挙が告示されるや、佐藤まつ子は、即日立候補の届出をして、山崎団地三街区三号棟に選挙事務所を設け、婦人後援会を中心とした約二〇〇名に及ぶ支持者らと共に活発な選挙運動を行なつてきた。一方被告人は、勤務先の休暇をとり、その居宅において同人に代つて子供の面倒をみる傍、同人を支援して居宅に立ち寄る訪問客の接待に当り、また選挙事務所からの依頼に応じてポスターの運搬や訪問客の送迎にも従事してきたところ、一街区の中に「夫は仕事を休んでいるのに、妻が立候補して出回つていても挨拶にも来ない。道で会つても頭一つ下げない。佐藤まつ子は従来からあまり愛想のいい女ではない」等と言つている人がいることを聞知した。被告人は熟慮した結果、すでに告示の前夜挨拶に回つた四号棟を除いた残りの一街区だけでも挨拶に回つたほうが良いとの結論に達したので、同年同月一六日ころ、佐藤まつ子後援会の山崎団地々区事務局長篠原保に電話でその旨の相談をしたところ、同人も、騒音などで団地特に一街区の住民に迷惑をかけているのは事実であるし、中傷されたままでいるのは選挙において佐藤まつ子候補者が不利になるとの考えから、即座にこれに賛同し、かつ同年同月一七日の日曜日にその挨拶回りを実行することとその時には同人も被告人と同道することを約束した。かくして被告人は前同日に篠原保を同道して山崎団地一街区の四号棟を除いた各棟の全戸を訪問することにしていたが、当日の朝になつて、右後援会の会長海老原勉も午前中だけ被告人らに同伴することになつたので、結局被告人は、前同日午前一〇時ころから篠原保及び海老原勉と一緒に山崎団地一街区一ないし三号棟と五、六号棟の全入居者宅(留守宅を除く)を順次訪問し、次いで前同日午後三時ころから篠原保と一緒に同団地同街区七、八号棟及び九号棟の一部の入居者宅(留守宅を除く)を順次訪問した。

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和四九年二月二四日施行の東京都町田市議会議員選挙に立候補した佐藤まつ子の夫であるが、同年同月一七日、同候補者の選挙運動のため、別表一、二記載のとおり、右選挙の選挙人である同市山崎町二三〇〇番地山崎団地一街区五号棟二〇一号宮本敏文方ほか一二名方を戸別に訪れ、右選挙の選挙人である宮本かよほか一二名に対しそれぞれ別表一、二の各「言いあるいた行為」欄記載のこと等を申し向け、もつて選挙運動のため戸別に同候補者の氏名を言いあるいたものである。

(証拠の標目)(省略)

(争点に対する判断)

一  公訴棄却の主張について

弁護人は、本件起訴は公訴権の濫用によるものであるから、本件公訴は棄却されるべきものであると主張し、その理由として

1  本件起訴の対象にされた被告人の行為は、告示後妻まつ子が連日使つている宣伝カーのスピーカーの音で団地の住民に迷惑をかけているので、夫の立場から近隣の付合いであるお詫びの挨拶をしたにすぎないもので、いささかも犯罪の嫌疑のないものである。しかるに検察官は日本共産党を弾圧するためという違法な政治目的をもつて故意にこれを戸別訪問脱法の罪として起訴したものである。

2  また、我国の警察は日本共産党に対して敵視政策を一貫してとつており、選挙の際には、日本共産党の活動に妨害を加え、有権者との離間策をとり、票潰しも敢えてやり、事件をねつ造して逮捕することも公然と行なつている。本件起訴も右方針による弾圧事件である。すなわち、警視庁町田警察署は、佐藤まつ子の落選を意図して、被告人の行為の目的「お詫びの挨拶」であることを全く捜査せず、というよりは最初から意識的に故意にその点を無視して、単に選挙期間中であつたこと、被告人が佐藤まつ子の夫であるということだけで予断と偏見をもち、現行犯逮捕の要件もその必要性もないのに、佐藤まつ子候補者の印象を悪くして支持者の足を止めるため、敢えて先ず被告人を逮捕した。そして検察官もまたこれを諒として本件起訴に及んだものであるから、本件起訴は思想の自由及び法定手続の保障を侵害した違法捜査によつてなされたもので検察官の公訴権の濫用によるものである。

というのである。

しかし、一件記録に照らせば、本件公訴を提起するについて、捜査官は証拠の収集に努め、これを証明するに足りるだけの証拠が収集されていたと認められるのである。検察官がことさらに日本共産党を弾圧する意図のもと公訴権を濫用して本件公訴を提起したものとは認められない。弁護人の1の主張は採用しない。

次に第一一回、第一二回及び第二〇回公判調書中証人新堂甚英の供述記載、第一二回、第一三回、第一四回及び第二〇回公判調書中証人萩原和四郎の供述記載、第一六回及び第二一回公判調書中証人亀卦川文彦の供述記載及び証人松本満利の当公判廷における供述によれば、本件選挙の際、警視庁町田警察署は選挙違反取締本部を設けて選挙違反取締体制に入つていたところ、本件当日午後四時ころ、山崎団地一街区八号棟五〇七号に居住している亀卦川文彦から「山崎団地に住んでいる八号棟の亀卦川だが、佐藤まつ子の夫と称する二人連れの男が回つて来て『佐藤まつ子の夫ですが大変騒がしてすいません。あと一週間ですからよろしくお願いします』というような内容で回つて来たけどどうなんだ違反じやないか」という通報を受けたので、同取締本部の総括責任者である同署刑事課長萩原和四郎以下一〇名の警察官が山崎団地に急行して内偵した結果、一街区八号棟及び九号棟の居住者数名から右亀卦川の通報と同旨の聞込みを得たうえ、被告人が篠原保と共に九号棟の各戸を訪れ相手方と何にか話しているところを観取することができたので、萩原刑事課長は、被訪問者に対する証拠固めなどの必要性から被告人らを逮捕することに決め、同署警察官新堂甚英、同松本満利らに命じて、九号棟一〇四号平塚方を訪問しようとしていた被告人らを現行犯逮捕したことが認められる。被告人を逮捕した逮捕手続には違法、不当のかどはない。(もつとも逮捕直前の平塚方において、被告人が誰を相手にどんな行為に及んだのか、萩原刑事課長が現認して制止した行為は何であつたか疑念を抱かざるをえないが、すでにこの段階以前に現行犯逮捕の要件は充足されていたものである。)また一件記録を仔細に検討してみても、佐藤まつ子候補者に対する選挙妨害として被告人を逮捕したことを窺わせるものはない。従つて弁護人主張2の捜査の違法を前提とする公訴権濫用の主張も採用できない。そもそも捜査手続の違法は、公訴提起の効力を当然に失わせるものではないのであるから、捜査の違法を前提とする弁護人主張の2は主張自体採用に由なきものである。

二  戸別訪問禁止規定は憲法違反であるとの主張について

1  公職選挙法一三八条二項は憲法に違反する

弁護人は、公職選挙法一三八条二項は違憲であるとして、その理由として別紙二、のとおり主張する。

しかしながら、公職選挙法一三八条二項は選挙運動のために同条項所定の特定の候補者の氏名を言いあるく等の行為が行なわれた場合に限つて、同条一項と同じような効果をもつものとしてこれを脱法行為として禁止しているのであつて、政治活動として行なわれた場合まで禁止するものではない。政治活動と選挙運動との間には区別があるから、脱法行為を禁止することが政治活動そのものを禁止することにはならない道理である。そして同条二項の脱法行為禁止の規定は同条一項の規定が違憲でないのと同一の理由により、憲法二一条に違反するものではない。

公職選挙法一三八条一項の規定が憲法二一条に違反するものでないことは、累次の最高裁判所大法廷判決(昭和四三年(あ)第二二六五号同四四年四月二三日判決・刑集二三巻四号二三五頁、昭和二四年(れ)第二五九一号同二五年九月二七日判決・刑集四巻九号一七九九頁)及び昭和五五年(あ)第八七四号昭和五六年六月一五日最高裁判所第二小法廷判決の明らかにするところであり、当裁判所もこの見解に従うものであるから、弁護人の右主張は採用しない。

2  公職選挙法一三八条二項を本件被告人に適用することは憲法に違反する。

弁護人の主張する理由は別紙三のとおりである。

その脱法行為も含めて戸別訪問という表現の手段方法を禁止することが正当化されている以上、弁護人主張の法理は採用できない。選挙運動の性質を有する右条項所定の行為が禁止されるにすぎないのであるから、かかる禁止が、弁護人の指摘するように、隣人間での住民としての日常の挨拶行為も謝罪行為も禁止される効果をもついわれはない。

三  戸別訪問脱法の罪(選挙運動のため特定の候補者の氏名言いあるき行為)の認定について

公職選挙法一三八条二項は「いかなる方法をもつてするを問わず、選挙運動のため、戸別に、特定の候補者の氏名を言いあるく行為」を同条一項に規定する禁止行為すなわち戸別訪問に該当するものとみなしているのであるが、その法意は、選挙運動として戸別に特定の候補者の氏名を言いあるく行為には、特定の候補者を相手方選挙人に強く印象づけて当該選挙人から特定の候補者に投票を得させるにつき有利になるという効果、ひいては同条一項の戸別訪問と同じような効果があり、同時に戸別訪問の場合と同様の弊害も伴うことから、これを戸別訪問の脱法行為として禁止したものと解せられる。この法意からすれば、特定の候補者の氏名を言いあるく行為というのは、単に特定の候補者の氏名のみを言いあるく場合に限らず、他の行為に付随して特定の候補者の氏名を言いあるく場合、さらにはかかる場合に候補者氏名を何某の妻などと間接的表現で言いあるく場合も含むと解すべきであり、その行為が「選挙運動のため」になされた場合には戸別訪問とみなされ禁止の対象になるというべきである。そしてここでいう「選挙運動のため」とは、戸別に特定の候補者の氏名を言いあるくことにより、特定の候補者を相手方選挙人に強く印象づけて、当該選挙人から特定の候補者に投票を得させるにつき有利に働くものと認識しかつこれを積極的に認容している場合と解するのが相当である。

これを本件についてみるに、取り調べた関係証拠を検討してみると、

1  宮本敏文方において

第三一回公判調書中証人宮本かよの供述記載部分及び同人の検察官に対する供述調書を総合すると、同人は本件選挙のポスターで佐藤まつ子の顔と氏名を知つたが被告人については本件当日まで顔も氏名も知らなかつたこと、右宮本かよは、本件当日の午前中に山崎団地一街区五号棟二〇一号の宮本敏文方を訪れた被告人から「四号棟から立候補している佐藤まつ子の亭主です」「朝早くからおさわがせして申しわけございません。あと一週間ですからよろしくお願いします」と言われ、被告人の後にいた二人を後援会の人で一緒にまわつていると紹介されたこと、これに対し宮本かよは「ご苦労さまです」と言つて応対したこと

2  石田光一方において

証人石田絹子の当公判廷における供述及び同人の検察官に対する供述調書を総合すると、同人は佐藤まつ子については同じ団地に居住している主婦として顔だけは知つていたが被告人とは本件当日まで一面識もなかつたこと、右石田絹子は、本件当日正午ころ山崎団地一街区六号棟三〇六号の石田光一方を訪れた被告人から「今度の市会議員選挙に立候補している佐藤まつ子は私の妻です」と言われたこと、そこまで聞いた時、偶外出しようとして玄関に来ていた夫光一が横から「選挙違反じやないか」というようなことを言うと、被告人は選挙違反ではないと反論していたけれども、夫光一が扉を閉めて応対するのを断つたこと

3  上島尚忠方において

第二一回公判調書中証人上島恵美子の供述記載部分及び同人の検察官に対する供述調書を総合すると、同人は被告人と佐藤まつ子については従前一緒に歩いているところを見かけたことがあつた程度の間柄であつたこと、右上島恵美子は、本件当日正午ころ山崎団地一街区六号棟二〇六号の上島尚忠方を訪れた被告人から「今度選挙に出ている四号棟の佐藤まつ子の夫です。いつもおさわがせして申しわけありませんが、よろしくお願いします」と言われたこと、これに対し上島恵美子は「はいわかりました」と言つて応対したこと

4  平山修三方において

証人平山町子の当公判廷における供述及び同人の検察官に対する供述調書を総合すると、同人は佐藤まつ子とは予てより面識があつたが被告人とは面識がなかつたこと、右平山町子は、本件当日正午ころ山崎団地一街区六号棟一〇六号の平山修三方を訪れた被告人から「四号棟から選挙に出ている佐藤まつ子の夫です。こちらは後援会の方です」と言われ、被告人自身と一緒に来ていた二人を紹介されたうえ、「よろしくお願いします」と言われたこと

5  金井修方において

第三二回公判調書中証人金井豊子の供述記載部分及び同人の検察官に対する供述調書を総合すると、同人は従前から佐藤まつ子の顔と氏名は知つていたが被告人とは一面識もなかつたこと、右金井豊子は、本件当日午後山崎団地一街区六号棟三〇九号の金井修方を訪れた被告人から「私は四号棟から立候補した佐藤まつ子の夫です。うるさいけれどもあと一週間ですからよろしくお願いします」と言われ、「結構ですよ」と返答すると、さらに「御主人様にもよろしく」と言われたこと

6  満留嘉昭方において

第二四回公判調書中証人満留ミサオの供述記載部分及び同人(満留みさお名義)の検察官に対する供述調書を総合すると、同人は佐藤まつ子と顔見知りであつたが被告人とは全く面識がなかつたこと、右満留ミサオは、本件当日午後山崎団地一街区八号棟五〇一号の満留嘉昭方を訪れた被告人から「一の四の佐藤です。この度家の女房が立候補しており、何かとうるさいでしようが、あと一週間ですからよろしくお願いします」と言われ、さらに一緒に来ていた男性を「こちらの方は佐藤まつ子の後援会の方です」と言つて紹介されたこと、これに対し満留ミサオは「ああそうですか」と言つてやつたこと

7  亀卦川文彦方において

第一六回及び第二一回公判調書中証人亀卦川文彦の供述記載部分によると、同人は佐藤まつ子も被告人も本件選挙以前には知らなかつたこと、右亀卦川は、本件当日午後四時ころ山崎団地一街区八号棟五〇七号の同人方を訪れた被告人から「今一街区から立候補している佐藤まつ子は私の女房です。あと一週間位おさわがせします。」と言われたこと、これに対し亀卦川は「ああそうですか」と言つて扉を閉めてしまつたこと

8  吉田正方において

証人吉田すみ枝の当公判廷における供述及び同人の検察官に対する供述調書を総合すると、同人は佐藤まつ子とは顔見知りであつたが被告人とはほとんど面識がなかつたこと、右吉田すみ枝は、本件当日夕刻山崎団地一街区八号棟二〇七号の吉田正方を訪れた被告人から「四号棟から今度立候補している佐藤まつ子の夫です。家内が毎日毎日朝からうるさくしていてご迷惑をかけています。あと一週間ですからよろしくお願いします」と言われたこと、これに対し吉田すみ枝は「ごていねいに、どうもご苦労さまです」と言つて応対したこと

9  (旧姓沼田)〓口幸子方において

証人〓口幸子の当公判廷における供述及び同人(沼田姓)の検察官に対する供述調書を総合すると、同人は佐藤まつ子については一、二回顔を見かけているが被告人とは一面識もなかつたこと、右〓口幸子は、本件当日夕刻山崎団地一街区八号棟二〇八号の同人方を訪れた被告人から「一街区から立候補している佐藤まつ子の夫です。おさわがせして申しわけありません。あと一週間ですからよろしくお願いします」と言われ、これに対し〓口幸子は「じや頑張つてください」と応対したこと

10  松岡昇方において

第二四回公判調書中証人松岡良子の供述記載部分によれば、同人は佐藤まつ子とは従前からよく知り合つていたし被告人とも面識があつたところ、本件当日午後四時ごろ山崎団地一街区八号棟四〇一号の松岡昇方を訪れた被告人から「佐藤です。今度うちのが出ますのでよろしく」と言われ、さらに何にか二言三言話を聞かされたこと、被告人から「佐藤です。今度うちのが出ますので……」と言われたとき、松岡良子はその言葉をすぐに「立候補した佐藤まつ子」という意味に受け取り、「ご苦労さまです。大変ですね」と言つて応対したこと

11  池田芳弘方において

第三〇回公判調書中証人池田慧子の供述記載部分及び同人の検察官に対する供述調書を総合すると、同人は佐藤まつ子及び被告人とも予てより面識があつたところ、本件当日午後四時ころ山崎団地一街区八号棟四〇四号の池田芳弘方を訪れた被告人から「四号棟の佐藤です。この度私の家内が立候補したのですが、ご迷惑をおかけします。もう少しですから我慢してやつて下さい」と言われ、一緒に来ていた男性の方を「事務所の方です」と紹介されたこと、被告人から「この度私の家内が立候補したのですが……」と言われたとき、池田慧子はその言葉をすぐに「市議会議員に立候補した佐藤まつ子」という意味に受け取つたこと

12  平賀喜平方において

証人平賀みよ子の当公判廷における供述及び同人の検察官に対する供述調書を総合すると、同人は佐藤まつ子については顔だけは知つていたが被告人とは全く面識がなかつたこと、右平賀みよ子は、本件当日午後山崎団地一街区八号棟二〇四号の平賀喜平方を訪れた被告人から「佐藤ですが、この度女房が立候補して皆さんに大変迷惑をかけています。もつと早く挨拶に来なくてはいけなかつたのですが、遅くなりまして、選挙まであと少しだからうるさくて申しわけありませんがよろしくお願いします」と言われ、階段のところに立つていた男性を「後援会の人も一緒に来ました」と言つて紹介されたこと、被告人から「佐藤ですが、この度女房が立候補して……」と言われたとき、平賀みよ子はその言葉を「立候補した佐藤まつ子」という意味に受け取つたこと、そして「頑張つてください」と言つて応対したこと

13  友澤宏方において

証人友澤きく江の当公判廷における供述及び同人の検察官に対する供述調書を総合すると、同人は佐藤まつ子とは予てより面識があつたが被告人とは面識がなかつたこと、右友澤きく江は、本件当日午後山崎団地一街区八号棟二〇六号の友澤宏方を訪れた被告人から「一の四の佐藤ですが、家内が出てます。一街区の皆さんにマイクの音などでさわがしておりますがあと一週間位のことですからよろしくお願いします」と言われたこと、被告人から「一の四の佐藤ですが、家内が出てます」と言われたとき、友澤きく江はその言葉を「立候補した佐藤まつ子」という意味に受け取り、「ご苦労さまです」と言つて応対したことの事実が認められ、右によれば、被告人が別表(一)記載の九名方を戸別に訪れ、従前被告人とは面識のない宮本かよら九名に対して、騒音謝罪の挨拶行為に付随する形ではあるが佐藤まつ子候補者の氏名を言つている事実は明らかであり、また被告人が個別に別表(二)記載の松岡良子ら四名に対してもやはり騒音謝罪の挨拶行為に付随する形でかつ相手方において容易に了知できるような間接的表現により同候補者の氏名を言つているものといわなければならない。

しかし、本件公訴事実中、訪問先を横山正方、面接者を横山〓子とする同候補者の氏名言いあるきの点については、その証拠である筈の第三〇回公判調書中証人横山〓子の供述記載部分の要旨が「被告人とは予てより面識があつた。本件当日午後四時ころ、被告人が山崎団地一街区八号棟四〇二号の横山正方に来て、応対した横山〓子に『一の四の佐藤です』とか『お騒がせして申訳ない』と言つた。自分も『ごていねいに』と言つて挨拶したと思う」というものであつて、このような証言では、同候補者の氏名を被告人が言いあるいたという事実はとうてい認めるに由ないところであり、他にこの点を証明できる証拠はないので、この点については犯罪の証明がないこととなる。

そこで右の一三個の戸別に特定の候補者の氏名を言いあるいた行為(以下本件行為という)が選挙運動のためになされたものか検討してみるに

(1) まず本件行為は、山崎団地一街区(九棟三〇〇戸)のうち告示前夜挨拶した四号棟を除く他の全戸という多数人を対象に行なわれた一連の行為の一部であること

(この点につき、被告人は一街区の中から挨拶に来ない旨の苦情が出ており、一街区の特殊性から当然すべきお詫びの挨拶を、当然すべき範囲の人達にしたにすぎないという。そして被告人及び証人佐藤松子の当公判廷における各供述や町田山崎住宅管理組合規約等関係証拠によれば、山崎団地一街区には近隣の迷惑となる騒音や言動についてきびしい制約があつて、居住者らが日常いわゆる生活騒音に関して互に特別の配慮をして生活している状況にあることが認められるが、しかしそれ故に、同街区から議員に立候補する者は、生活騒音とは質を異にする選挙の宣伝カーやスピーカーから発する音による騒音について、同街区の全戸を戸別に詫びて回ることが、同街区に居住する者としての当然の常識的行為であつて、詫びて回らなければ同街区の住民としての社交上の礼儀に欠けることになり、他方そのような挨拶を希望するのが同街区住民の一般的心情とはとても思われない。このことは、被告人ら夫婦が告示前夜に挨拶回りした所が四号棟のみであつたことからも理解されよう。)

(2) 本件行為が行なわれたのは、本件選挙の選挙運動期間中で唯一の日曜日であり、本件行為の各内容をみると、騒音について謝罪する趣旨を超えた意味のものも観取されること

(3) そして、本件当日、被告人が行なつた本件行為を含めた一連の行為は、判示のとおり、単に「夫の挨拶がない」という誹謗だけではなく、むしろ主として候補者佐藤まつ子に対して向けられた「道で会つても頭一つ下げない」とか「佐藤まつ子は従来からあまり愛想のいい女ではない」等の誹謗・中傷が流れているのを気にした被告人の発意により行なわれたものであるところ、被告人に同道した篠原保が「回らなければ佐藤まつ子候補者の選挙に不利になると考えた」と供述しているように、本件行為は誹謗・中傷によつて選挙人に印象を悪くされた同候補者の選挙における印象を良くすることを図つたものであるから、右篠原と被告人との間で意思の疎通を欠いていた事情もない本件においては、被告人としても騒音についての単なるお詫びの挨拶にとどまらず、お詫びの挨拶旁、相手方(面接者)によつて表現に違いはあるものの、候補者名を言いあるくことにより、同候補者を選挙人に強く印象づける意図目的をもつていたものと推認できること

(4) 本件行為を含む一連の行為には、同候補者後援会山崎団地々区事務局長篠原保及び同候補者後援会長海老原勉(ただし一、二、三、五、六号棟について)が同行していること

(被告人が供述しているように、団地では男性が一人で出向いても中々扉を開けてくれないために、同伴者が必要であつたにしても二人も同行する要はあるまい。)

(5) 現に本件行為の面接者一三名中一〇名が被告人らを選挙運動に来たものと直感していたこと

(この点につき、本件当日、被告人と面接したという弁護人申請証人八名と本件行為の面接者中の多数名が、公判廷においては、被告人らが選挙運動に来たとは思われなかつた旨供述しているけれども、本件より相当な年月が経過してからのものでもあり異とすることではなく、ただちに措信しがたいものである。)

以上のような本件の諸般の事実に、証人牧野宗民の当公判廷における供述にみるように、結果としては上位当選を果したが、告示の時点の佐藤まつ子候補者については同候補者の選挙対策本部においてもかなりきびしい選挙と受け止めていた事情にあつたこと及び被告人も夫として常に同候補者の当選を期待してやまなかつた心情にあつたこと等を綜合判断すると、被告人は選挙の騒音について謝罪の挨拶をして、それと併せて佐藤まつ子候補者の氏名を言いあるくことによつて、同候補者を面接者が強く意識し又はすでに持つている意識を一層強めることとなり、そのことが面接者から同候補者への投票を得または確保するうえで有利に働くであろうとの認識のもとに、これを認容して本件行為に出たものと認定できるので、これは選挙運動のためになされたものというべきである。

(法令の適用)

被告人の判示所為は包括して昭和五〇年法律第六三号(公職選挙法の一部を改正する法律)附則四条により同法による改正前の公職選挙法一三八条二項に当るから同条一項に違反することとなり、同法二三九条三号に該当するので、その所定刑中罰金刑を選択し、その罰金額内で被告人を罰金一万五〇〇〇円に処し、この罰金不完納の場合における労役場留置につき刑法一八条、公職選挙法二五二条一項の規定を適用しないことにつき同条四項、訴訟費用の負担につき刑訴法一八一条一項本文をそれぞれ適用して主文のとおり判決する。

なお本件公訴事実中別表番号11の訪問先を横山正方、面接者を横山〓子とする佐藤まつ子候補者の氏名の言いあるき部分については、前説示のとおり犯罪の証明がないが、右は有罪とされたその余の事実と包括一罪をなすものと認められるから、主文において特に無罪の言渡しをしない。

(量刑事情)

被告人の本件行為は違法な選挙運動であるからその刑事責任は免れることはできないが、いわゆる形式犯に属するものであつて、かつ戸別訪問の中にあつても直接特定候補者に対する投票を依頼したわけのものではなくその効果は間接で、選挙人に与えた影響も弱く、選挙運動としては比較的弱いものであつた。選挙の自由、公正に実質的な害悪を及ぼしたとは思われないし、また訪問した時刻は午前は一〇時以降、午後は三時ころから夕刻まで、訪問した時間はいずれの訪問先でも寸刻にすぎなかつたもので、選挙人の生活の平穏にも害を及ぼすというほどのものではなかつたといえる。そして被告人には選挙違反の前歴がないこと、その他酌量すべき諸般の事情を考慮すると、今更公民権を停止するのは相当ではない。

(別表一)

〈省略〉

(別表二)

〈省略〉

(別紙一)訴訟費用表

〈省略〉

〈省略〉

〈省略〉

(別紙二)

公職選挙法一三八条二項は違憲である。

(一) はじめに、

国民の選挙権は、国民主権の根幹をなす権利として憲法で最大限尊重されなければならない。議会制民主主義をとるわが憲法の下で、国民が主権者として国政に参加するのは選挙を通してのみである。従つて国民の意思が議会に反映されはじめて国民主権といえる。そのためには、国民は候補者及びその所属政党の政見、人柄、能力等を知り、国民相互で意見交換や討論等が自由に保障されなければならない。そうしてはじめて民主的選挙制度といえる。日本国憲法は、そのために憲法二一条で国民の表現の自由、政治活動の自由が保障されているのである。従つて選挙運動の自由は、国民の主権的権利として最大限尊重されなければならない。

戸別訪問は国民の選挙運動の中ではもつとも手頃で、候補者や運動員の政策を直接聞くことができ、候補者の選挙の判断資料を得られる最良の方法である。しかも金や権力と無縁で国民が誰れでも参加出来るという長所を持つている。だからこそ欧米諸国をはじめ近代民主主義政治の国ではどこも戸別訪問が選挙運動の中心として自由に認められているのである。ところが、日本は世界でも民主国家の中では例を見ず、公選法一三八条で戸別訪問を禁止している。

(二) 戸別訪問の弊害論について

ところで、国民の主権的権利である選挙権及び基本的人権である表現の自由の表現行為である戸別訪問が禁止されることが合憲性を有するためには、制約を受ける人権尊重の必要性と人権制限の必要性を比較衡量し適正な均衡をとるべきであるが、国民の主権的権利等重要な人権については必要最小限であること、人権の行為により生ずる害悪を避けるため止むを得ない場合であること、制限に見合う代償措置がとられることが条件である。

戸別訪問を禁止の理由として、従来論じられて来た弊害は、(1)情実・感情に訴えて当落を支配すること、(2)選挙の品位を低下させること、(3)買収等不正行為の温床になり易いこと、(4)家事等業務の妨害となり私生活の平穏を害されること、(5)候補者が訪問回数を競い煩に耐えられなくなること、が言われて来た。

前二者の弊害論は戦前の前近代的選挙の実態から派生して来ているもので、今日の政党が中心となる選挙では通用しないものである。そこで、後三者が戸別訪問を全面的に禁止する合理的理由があるか否かを検討する。

1 まず不正行為温床論について

戸別訪問に買収等の不正行為が必然的に随伴するものではない。従つて買収等不正行為が戸別訪問にあれば、買収犯等の実質犯を取締れば済むことであり、戸別訪問それ自体全面的に禁止する理由にはならない。戸別訪問を禁止しているのは、戸別訪問それ自体が害悪があり規制する必要があるからではなく、戸別訪問を自由にすると買収等不正行為が増大するからであるというのがこの理由である。このことは、戸別訪問が買収等不正行為を伴う危険性が高い場合にはじめて理由となり得る。即ち、買収犯等の不正行為を取締るのが目的であるが、買収犯を取締ること自体が大変困難でもあるので、不正行為を増大させる危険性が高い戸別訪問を禁止したのであるという(第四次選制度審議会における法務省の見解)。本来自由な戸別訪問も買収等の取締という大きな目的のために犠牲にするだけの必要性があるというのである。しかし、戸別訪問に買収等不正行為の温床となる危険性はゼロとは言えないかもしれないが、その可能性は非常に小さいものである。即ち、そもそも選挙権を買収する場合は、他人に隠れてやるのが常道で、戸別訪問のように他人に見られやすい方法では行わないものである。しかも、買収等不正行為を行う者は候補者本人かその近親者又は選挙参謀に限られている。即ち、買収罪等の犯罪を犯してまでも選挙運動を行う者は選挙の中枢にあり大金に接せられる立場の人に限られる。このことは、買収等の刑事訴追を報じる新聞記事等からも明らかである。

従つて、戸別訪問を行う人々の中で買収等不正行為を行う者があるとすればその数は限られた少数であると言える。ことに、最近の政党中心の選挙では、選挙運動特に戸別訪問を行う者の大部分は、候補者やその近親者並びに選挙参謀者というよりも、政党や候補者の支持者ら第三者である。これら戸別訪問を行う大多数の第三者は買収等不正行為とは全く無縁の人々である。かように、今日の戸別訪問は、買収等不正行為の温床となりうる危険性はむしろ小さいと言える。従つて、買収等の危険性の小さい戸別訪問を一律に禁止することは、戸別訪問の自由を含む政治活動、表現活動の自由である基本的人権を制限する合理的理由とはなり得ないと言える。しかも、戸別訪問は、国民にとつてもつとも簡便で金のかからない選挙運動であるということと、候補者や運動員と国民が直接話し合が出来情報の交換と討論が出来るという利益がある。このことは、中野区教育委員準公選における中野区民の戸別訪問に対する実施後の反応にも良くあらわれている。

かように、国民にとつて有効適切な選挙運動である戸別訪問を禁止することは、買収等の不正行為を取締ることの利益よりも、むしろ、国民にとつて自由な選挙を禁止する不利益を多く与えるものであると言える。しかも戸別訪問禁止がはたして買収等不正行為取締に有効であるとも思われない。もともと買収等は、戸別訪問以外の方法で行われていることが多いので、戸別訪問を禁止しても効果がないのであるが、そればかりか、買収等不正行為と無縁の第三者が中心である戸別訪問の取締に労力をとられ、本来の買収等実質犯の取締が困難になつているとの警察当局の発言があるくらいである(朝日新聞昭和四一年八月九日)。

かような実態は、戸別訪問禁止規定が、その目的である買収等不正行為の取締に役立たないばかりか有害でさえあることを示している。このことは、公選法一三八条二項の場合はもつとはつきりする。即ち、第二項の禁止している行為は、演説会開催の告知や政党候補者名の言い歩きであり、もともと買収を伴わない行為である。しかも戸別の訪問に限らず戸別に言い歩く行為までも禁止している。戸別に政党や候補者名を言い歩くことと買収等の不正行為とでは、どう考えても結びつきようがない。以上のように、不正行為温床論は、戸別訪問禁止規定の合理的理由として耐えられないことがはつきりした。

2 次に被訪問者に対する迷惑論である。

そもそも「迷惑」をさける国民の利益と国民の主権者としての選挙運動の自由とを比較して、「迷惑」をさける利益の方をより優先することは、そもそも合理的理由にならない。仮に多少の迷惑があつても国民の代表者を選ぶ重要な選挙の時は多少の迷惑は我慢するのが普通である。

また被訪問者に迷惑と感じられる戸別訪問では投票が得られないのであり、運動員は自ら迷惑と感じられない方法を工夫するもので、法で戸別訪問を全面禁止する理由にはならない。迷惑であれば被訪問者は拒否すれば足りるのであり、それをことさらに法律でもつて禁止する理由も必要もない。しかも、私生活の平穏を害する行為は、戸別訪問以外にも、訪問販売等同様の迷惑行為はいくらでもある。国民の基本的人権に欠くことの出来ない選挙の自由、戸別訪問の自由を禁止して他の行為は放置することは本末転倒である。このことは戸別訪問禁止は迷惑が理由ではないことをはからずも明らかにしているのである。

3 次に候補者に煩瑣であるとの点について、今日の選挙は政党選挙が中心である。候補者のみが戸別訪問を行うものでない。戸別訪問の中心は運動員や支持者である。従つて、候補者が戸別訪問に煩わされることはむしろ少ないのである。仮に煩しいからといつて全面禁止する理由にはならないことも明らかである。また、戸別訪問を自由にすると候補者側が戸別訪問を競いそのための運動員の確保や費用が大変で煩瑣であるとの意見もある。しかし、それは選挙そのものが今日ではかようなものになつているし、それは戸別訪問に限らず文書配布等全てに渡つて言えることである。資金の規制は独自に政治資金規制法があり独自の規制対象であつて、戸別訪問を全面的一律に禁止する理由にはならない。戸別訪問は金がかかると言うが、本当は、もつとも金のかからない選挙運動である。支持者が手弁当で戸別訪問をするものであり、またそうでなければやりきれるものではない。このことは欧米の実態が事実を物語つている。

以上戸別訪問を全面禁止する合理性は何らないことが明らかになつた。

また戸別訪問禁止規定の危険性は戸別訪問行為それ自体は何ら害悪がないばかりか、むしろ、国民の主権者としての政治的自由、国民全体の選挙権の保障たる行為そのものである。むしろ積極的に保障すべき行為である。このことは、公選法一三八条二項の方がもつとはつきりする。同条項は、演説会開催の告知行為や政党名、候補者名を戸別に言い歩く行為を禁止している。これらの各行為は、選挙に限らず、日常の政治活動としてどの政党や政治団体も行つている。選挙となれば、当然政党選挙が中心である以上、政党の政治活動は活発になる。これらの政治活動の中で演説会開催や政党名、候補者名が出る行為を戸別に言い歩く様々な行為も当然多く行われている。これらの各行為は憲法二一条が保障する政治活動・表現活動の自由の行為である。戸別訪問を禁止する理由と言われている各弊害論がいずれも合理的理由となり得ない以上、戸別訪問脱法行為禁止の名のもとに禁止されている公選法一三八条二項は、禁止対象行為が、政治活動そのものであるがゆえに、むしろ禁止による弊害は計り知れないものである。

以上、公選法一三八条二項の違憲性は明らかである。

(別紙三)

本件被告人に公職選挙法一三八条二項を適用することは憲法に違反する。

仮に、公選法一三八条二項が合憲であるとしても、その適用は、法の規制目的に合致した合理的理由がなければならない。そうでなければ、国民の主権的自由である戸別訪問を何らの合理的理由もなく制限することになり憲法二一条に違反することになる。

そこで、戸別訪問のもつ弊害と言われているものとの関係で、本件被告人の所為を検討する必要がある。

まず買収等不正行為の温床の可能性があつたかである。被告人は妻が選挙に立候補して居住している団地住民に騒音で迷惑をかけているので住民の一人として謝罪行為として一軒に、「四号棟の佐藤です。選挙でお騒がせしていて申し訳ありません」との趣旨でほんの二、三〇秒の間言い歩いたのである。その目的、行為の態様からも、何ら買収等の危険性も蓋然性もなかつた。また日本共産党はその主義から買収事件を起こさない政党でもある。かように本件に限つてみても、買収等不正行為の温床の具体的危険性はなかつた。次に、被訪問者の生活の平穏を害したかである。本法廷の各証人の証言で明らかになつたことであるが、どの被訪問者も被告人の訪問で迷惑を受けたと言う人はいなかつた。むしろ「ごくろうさま」や「どうもごていねいに」「たいへんですね」と労をねぎろう言葉が出たのである。訪問時間も二、三〇秒にすぎず、迷惑と感じる時間でもない。しかもあいさつの内容は「騒音で御迷惑をかけています。申し訳ありません」等との謝罪行為であり、これを迷惑と感じる人はいない。

さらに、候補者にとつて煩瑣であつたかとの点であるが、これはもはや検討するまでもなく、候補者自身が歩いたのではない。しかも被告人は自らの意思で謝罪行為を行つたのであり、自ら煩瑣をいとわず行つたのであるから弊害の有無を論ずる必要もない。

以上、被告人の所為はどの点からみても、戸別訪問禁止規定の適用を受ける合理的理由のない行為であることが明らかになつた。もしそれでも、被告人の行為を禁止するとなれば、被告人ら候補者の家族には、団地隣人間での住民としての日常のあいさつ行為も謝罪行為も禁止されることになる。これでは人間の尊厳の保障(憲法一三条)にも反するもので、候補者の家族には人間性を持つなと言うことに等しいことになる。

以上、被告人に公職選挙法一三八条二項を適用することは憲法二一条、一三条に違反することが明らかである。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例